島原半島博物日誌2

gooブログから引っ越してきた新参者です。よろしくお願いします。

高城神社の若杉霊神2基


25.8.2(土) 天気;晴れ 気温25℃
 高城神社の境内にあったものです。
 諫早市文化財や史跡を見に行くと、必ず出てくる「若杉春后(しゅんご)」と「土橋貞恵」、今回は「若杉」さんでしたか。w
 若杉さんがこのブログに初めて出たのは「2014年11月24日の記事『若杉春后翁居宅跡』」です。 もう11年前の話か、思い出すな〜ゴルフ場の恐怖!w
 境内にあったものは「若杉霊神」と名前がついていました。
「若杉春后は諌早藩士で晩年を森山町井牟田名で晴耕雨読の生活を送っていた。生来、学問を好み詩文にたけ、また書にも優れていた。この人が世に霊神として仰がれ郷土諌早の救世主として敬われるようになったの次のような理由からである。
 寛延三年(1750年)佐賀藩は藩財政のたて直しと諌早領主の不調法を理由に諌早領内の四千石を没収した。これまで、度重なる佐賀よりの圧政に耐えかねた領内数万の農民は諌早領主を思うあまり、遂に佐賀藩に対し反旗を翻し決起した。世に言う諌早の百姓騒動である。この時、春后は七十二歳の高齢であったが(居宅跡の解説と1歳ズレてるな)、佐賀藩の仕打ちに悲憤し、この騒動の先頭に立ち、長崎奉行・日田代官・大阪城代を通じ事の真意を幕府に訴えようとした。
 しかしこの行動は佐賀藩の知るところとなり、春后等は捕らえられ、佐賀で処刑された。その後、この一連の事件を佐賀藩でも勘案してか、十七年後の明和四年(1767年)先に没収した四千石を佐賀藩鍋島直茂公の百五十年祭の供養という名目で返還してきた。このことは若杉春后等が一命を賭して働いた賜ものであるとして、第十一代領主茂図(しげつぐ)公は春后の遺徳をたたえ、この若杉霊神を建立したのである。」
 なお、もう一枚の解説板には「佐賀本藩の後継問題に八代領主茂行が関与した際に領主の蟄居(※)、領地の取り上げがあり」と不調法の内容がもう少し詳しく書かれていました。
※蟄居(ちっきょ)・・・①家に閉じこもって外出しないこと、②江戸時代、武士に与えた謹慎刑
 タイトルに『2基』としているのは、実はこの霊神の隣にもう1基ありまして、
こちらを「若杉霊神表義碑」としています。
 表義碑は、「春后の功績を広く知らせることを目的として、北高来郡教育会が昭和十五年に建立したものです。諌早出身の教育者 西村房太郎が碑文を書いています。」